「大岡裁き」

法令遵守が声高に叫ばれている昨今。

 

そこから少し距離を置いて。

江戸時代のコンプライアンスについて語ってみたいと思います。

 

江戸時代の法律は、戦国時代が終わり、江戸幕府の統治を確実なものにする必要があったため、非常に厳しかったのです。


江戸時代中期

江戸城の南面にあるお濠は、通称「鴨ヶ淵」といいまして、その内側には将軍家の紅葉庭園がございました。

 

当時、そのお濠の外から鴨に危害を加える者は、将軍家に弓を引くも同然厳罰に処す、という告知がありました。

「厳罰」とは首を刎ねる、という意味です。


あるとき、丁稚の少年がお濠の端をとおりますと、鴨ヶ淵にはたくさんの鴨が浮かんでいました。

 

 

 

少年は、ちょっと驚かせてやろうと、小石を投げてみると、運悪くそのうちの一羽に命中。

その鴨は命を落としてしまいます。

 

 

少年は「しまった!」と思って、すぐさま逃げようとするが、時すでに遅し!

たちまち、近くにいた役人に取り押さえられ、町奉行につきだされてしまいます。


調べにあたったのは、あの大岡越前守です。

 

大岡は「ただのイタズラで少年の首を刎ねるというのは、なんとも不憫」と考えます。

 

大岡は、すでに死んでいる鴨の羽の下に手を入れます。

「うーん、やはりまだ死んではおらぬ。このとおり温かい。早々に安針町で治療を受けさせよ。」

 


<安針町は当時鳥問屋が立ち並ぶ町です。>


これを聞いた少年の主人は、言葉の真意を汲み取ります。

 

翌朝、安針町で購入した、大きさも毛並みも同じような鴨を持って、再び奉行所へ。

 

少年は、無罪放免となったそうです。


大岡裁き

当時は、幕府には絶対に逆らえません。

普通の役人であれば、少年が「法」を破った以上、命を奪われても仕方がないと考えるのでしょう。

 

これに対して、大岡は、ただのイタズラで命を奪うのはあまりに酷であり、何とか「法」の適用を回避できないか、その手段を考えます。

 

「法」の適用は、事実(小前提)を「法」(大前提)に当てはめることです。

 

江戸幕府の作った「法」を動かすことはたとえ大岡であっても不可能です。

そこで、大岡は「事実」を動かすことを思いつきます。

つまり、「死んだ鴨」を生きていることにしたのです。


ここで、読者は、大岡が「法」を欺いたような印象を受けるかもしれません。

 

しかし、江戸中期は、江戸初期に比べ、幕府による統治も安定していました。

そして、幕府の権威を脅かすような勢力はそれほど存在せず、比較的平穏な社会だったといえます。

 

実は、平穏な社会と厳しすぎる「法」との乖離が生じていたのでした。

 

そのため、当時の役人は、「みてみぬふり」を心得の一つにしていたともいわれています。


参考文献

「嘘の効用」 末廣厳太郎 

「大岡裁きの法律学」 岸本雄次郎 日本評論社