「贈与の呪縛」

昨年のバレンタインディーにチョコレートをいただいたとき、そのお返しをしなければいけない、と感じました。「この気持ちはどこからくるものだろうか」と考えたのが、この記事を書いたきっかけです。

 

「贈与」という行為は、そのほとんどが好意ではなく、実はとても打算的なものであり、社会において売買よりも本質的な行為なのです。


ある実験

絵画の作品評定という名目で参加者を集め、A、Bグループに分けます。

そして、各グループ、異なる条件で実験に参加してもらいます。

(以下、Aグループの参加者を「A」とし、Bグループの参加者を「B」とします。)

途中、Xが二本のジュースを買ってきて、そのうち一本をAに贈与します。Bに対して、Xはこの贈与を行いません。

絵画の評定が終了したとき、参加者全員に、有料のチケットの購入をお願いします。

 

その結果、Aグループのほうが、Bグループよりも2倍の数のチケットを購入してくれたのです。

注目すべきは、これとは別に「Xに好意があるかどうか」アンケートを取った結果、Xに好意があるかどうか、とは全く関連性がなかったのです。

チケットを購入してくれた理由は、Xに対し好意が生じたからではなく、実はジュースを受け取ってしまったという「負い目の感情」からだったと分析されています。(「影響力の武器」より)

この負い目の感情は、人間が共同社会で生きていいくうえで、遠い昔から既にインプットされているともいわれています。


贈与と共同体

人類学者であるモースは、贈与が行われるためには、与え、受け取り、返すという3つの義務が必要だと説いています。

そして、これらの義務を次のように社会システム全体との関係で捉えようとします。

 

そもそも、人は一人では何もできない無力な存在です。他人の協力が必要です。相互に助け合う関係を作るためにはまず自ら贈与する事から始めなければなりません。そして、贈与を受け取った者は負い目を感じ、そのお返しをせずにはいられません。

与え、受け取り、返すという、やり取りのなかで、両者の間には信頼や財産を分け合う連帯感のようなものが形成されます。

 

一方で、返せないほどの贈与を受け取ってしまった者は、返したくても返せない負債状態に陥ることになります。

そのような関係が形成してくると、与えた者は相対的に有利な地位につき、両者の間には名誉感情や権力が生じることになります。

権力を持った者は、その支配下にある者に対して、贈与する義務を負い、それによって自己の支配を確立していくのです。

 

その結果、徐々に共同体が形作られ、人々が助け合い・協力し合う関係できるのです。モースは、贈与を、共同体の形成・維持に不可欠な要素であると考えていたようです。


新しい共同体

最後に、モースの生きた20世紀前半には想像すらできなかったことについて、一言触れたいと思います。

ネット上では、昔のように時間やコストをかけずに、同じ趣味や共通の趣向を持つ者同士が簡単につながることができます。

そこにコミュニティーが誕生します。当然、コミュニティー内では贈与(無償の行為)が頻繁に行われます。

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【参考文献】

「影響力の武器」 誠信書房 ロバート・B・チヤルディー二 著

「贈与論」 岩波文庫 マルセル・モース 著