マイナンバー制度とプライバシーについて

本年1月よりマイナンバー制度がスタートいたしました。

社会保障、税、災害対策の行政手続きには、マイナンバーが必要になります。

 

行政側からすれば、個人番号によって異なる分野の情報を突合して、同一人物かどうか、確認できるようになり、行政運営の効率化が図られます。

 

逆に個人側からすれば、唯一無二・終生不変の個人番号と個人情報が関連付けられます。

いったん情報が漏れ出てしまうと取り返しのつかない事態にならない    か、と不安になってしまいます。                  

ここでは、プライバシー権について考えてみたいと思います。                 

 


「宴のあと」事件にみられたプライバシー権の輪郭

日本の裁判でプライバシー権が問題となったのは、あの三島由紀夫の小説「宴のあと」が最初だったと思います。

 「宴のあと」は、昭和344月の東京都知事選挙の立候補とその後の夫婦関係の破局という実際の事件をモデルにした小説です。

主人公の男性(元国会議員)と料亭の女将との情愛を描いた小説で、三島の生生しい描写は、一般の読者はいったいどこまでが真実で、どこからが作り話か、わからなくさせるほどでした。

 

判決は次のように述べています。

 

『たとえ小説という形式で発表され、したがって当然に作者のフィクションないし潤色が施されていことが考えられるものであるにしても通常人の感受性を基準にしてみたときになお、原告がその公開を望ない感情は法律上も尊重されなければならない』

 

プライバシー権の中身を突き詰めて考えると、この「公開を望まない感情」を保護の対象としているように思います。

あくまで「感情」であり、他の権利(例えば、財産権ではいくら損害を被ったか、明らかです。)に比べると、その輪郭はぼんやりしています。

しかも、通常人の感受性が基準とするので、社会全体としてプライバシーの公開にどこまで抵抗感があるか、という判断にならざるを得ないということなのです。


個人番号利用の拡大とプライバシー権の希薄化

現代の高度情報化社会においては、有名人だけではなく、私人のプライバシーも危険にさらされています。

プライバシーの中でも、住民一人ひとりに与えられた、唯一無二の個人番号が漏れてしまうと、その危険は増大します。

確かに、個人番号そのものは数字の羅列であり、それが漏れてもすぐに実害が生じるわけではありません。もっとも実際は個人番号だけが漏れる事態はむしろ想定しにくいです。例えば、個人番号カードであれば、当然住所や名前等の情報も付いています。

 

仮に個人番号と個人情報が一緒に漏れてしまうと、他の経路から取得されている個人情報とのデータマッチングが可能となります。

また、すべての住民に一人一人個人番号が振られていることとの関係で、各データの整合を図ることができます。その結果、自ら与り知らない所で膨大でかつ精度の高い個人情報が集積され、様々な個人情報が個人番号によって整理されることで、ありとあらゆる情報がいつでも検索できる状態に置かれてしまうリスクもあります。

 

 例えば、初対面の人がデータベースを検索して、私の財産や病歴、家族関係などを簡単に調べられるということになると、薄気味悪くなります。

 

通常の個人情報以上に、個人番号(を含む個人情報)は、他人に知られたくない情報といえます。

マイナンバー制度のスタートに合わせ、個人番号について通常の個人情報より一層の保護措置が設けられています。

今のところ、利用できる分野・範囲も税や社会保障など、非常に限られた分野に留まっています。

 ただ、将来的にはさらなる利用範囲の拡大が予定されています。

 

今後、マイナンバーをはじめとする個人情報の利用がどんどん拡大していくと、その利便性を優先して、私たちはもはや個人情報を提供することに抵抗感を感じなくなってくるという時代が来るのかもしれません。

  

私たち一人一人が自分の個人情報を守りたいと来た道を引き返そうとしたとき、周囲はあなたのプライバシーよりも、あなたの個人情報を利用することのメリットを優先するのかもしれません。

 

それほど遠くない将来、個人情報は、どこまでプライバシーとして保護されているのでしょうか。。